Summary
要旨
日本で売られている自転車の約85%は、中国で組み立てられている。円高でも円安でも、この比率は長らく動いていない。今回は、慶應義塾大学経済学部の駒形哲哉教授をお迎えし、著書『自転車に乗って見る日中経済 コロナを超えて』(霞山アカデミー新書、2021年)をめぐって語っていただいた。部品の少ない工業製品だからこそ見えやすい産業の全体像、そして日本が中国に頼らざるをえなくなった構造の実相まで。自転車という身近な乗り物は、日中経済の何を映し出すのか。具体的なエピソードを交えて聞いた。
自転車が入口、体制が主題――本書の成り立ちと研究の原点
本書は、東亜同文会の後身である霞山会(駒形さんは同会の理事を務める)が主催したセミナーでの講演をもとに、それまでの学術研究を一般の読者にも伝わるかたちに組み直して刊行された。駒形さんの本来の関心は、じつは自転車そのものにはない。中国が計画経済から市場経済へ移っていく論理と、その仕組みがどこまで持続するのか。それが一貫した主題である。
自転車が入口になったのは、2000年代の初めのことだ。中国の共同研究者から、天津の事例を紹介された。天津では計画経済の時代、国有の大きな企業集団が自転車産業を担っていた。ところが1990年代後半から2000年代初頭にかけてのわずかな期間に、この集団は解体され、1000社あまりの民間企業がひしめく市場型の産業組織へと様変わりした。これほど急激な転換は、なぜ、どのように起きたのか。それを解き明かすため、駒形さんは北から南まで中国各地で現地調査を重ね、中国製の低価格自転車がなぜ日本に溢れるようになったかを検証した。
さらにさかのぼれば、出発点は1989年の天津留学にある。都市近郊の農村が輸出に向かう姿、地方の党委員会が地域開発を試みる様子。そこで目にしたものが、計画経済から市場経済への中国ならではの移行の具体的な姿で、「産業を通じて体制を観察する」という、以後の手法と問題意識の土台になった。
なぜ自転車なのか――部品は少なく、要素は広い
自転車は、工業製品としての部品点数が自動車やオートバイと比べて桁違いに少ない。だから製品の全体構造を把握しやすく、現地での検証も容易である。その一方で、金属、機械、化学、電気、電子といった主要な工業の要素をひととおり含んでいて、部品から全て生産するには、国民経済に相応の工業基盤が整っていなければならず、産業をまたぐ技術と供給網のつながりも読み解くことができる。歴史的に見ても、部品から完成車まで一貫して生産できた国や地域――欧州、米国、日本、台湾――は、先進的な工業国・地域とみなされてきた。自転車産業は、その意味で「先進化の指標」にもなる。
また、産業移転と国際分業のあり方という点から、日本と中国の経済の関係を、いわば極端に縮めた姿で映し出す。さらに無免許で乗れて移動・運搬手段として定着した電動自転車、自転車にモーターが付き車輪の数が増えて形成された低速EV産業、放置し放題から爆発的に普及したシェアサイクルなど、普通の自転車から派生した新しい産業が次々に生まれてきた。先進国の後追いではない固有の産業の形成と発展のあり方という中国の独自性や、規制と制度と市場がどう作用し合うのかといった経済学として共通に議論できるトピックを、自転車産業を追跡するなかで観察できる。加えて、移動の効率、健康の増進、医療費の抑制といった自転車の社会的な価値も大きい。現在、研究の成果を、業界団体の運営や日本の自転車産業の振興という実践につなげられる。政策への示唆にも富んだ領域なのである。
販売台数の85%は中国組立――後戻りできない依存の構造
研究から見えてきたのは、日本における「中国調達の構造化」である。国内で販売される自転車の約85%は中国で組み立てられており、為替が動いても、この比率は長期的に変わっていない。残る約15%の国産品にしても、重要部品の一部は中国製に頼っている。供給網の結び目として、中国はすでに欠かせない存在になった。
この「構造化」は、中国の改革開放の成果というだけでは説明がつかない。冷戦の終結からWTO加盟に至る1990年代から2000年代前半にかけて、世界経済のほうが中国の台頭を選び、それを後押しし、後戻りのきかない依存関係をつくり上げた。そして日本はバブル崩壊後の平成不況のなかで自身がそれを選んだ。駒形さんはそう見る。
では、中国の側では何が起きていたのか。巨大な内需と人口、計画経済の時代に築かれた工業基盤の転用、段階を踏んだ市場化、外資と外国技術の巧みな導入、そして数多くの担い手(特に中国資本)の間の激しい競争。広い国土と多様性、地方の自立性のもとで試行錯誤が許され、電動自転車や低速EV、シェアサイクルのように、中央が厳しく規制していれば生まれにくい新しい産業が芽を出し、広がっていった。
その結果、これまで前提とされてきた「先進国から後発国へ順に産業が移転していく」という原則は、揺らいでいる。中国が世界の供給源として生産を呑み込み、余った分だけを外に吐き出す。そうした集中の構造によって、国際分業と世界経済の秩序は組み替えられつつある。
自転車を通して何が見えるか――中国を見ながら日本を見る
駒形さんは大学院時代から一貫して、「中国の経済体制」を「産業」の具体的な姿と結びつけて検証してきた。ただし、対象の選び方はつねに現場と状況に根ざしている。自転車にこだわるのではなく、「自転車を通して何が見えるのか」を軸に据える。だから対象が変わっても、通底する問題意識は変わっていない。1989年の天津で積み重ねた現場観察が方法の核をかたちづくり、やがて「中国を見ながら日本を見る」という、行き来する視点に行き着いた。学問上の規範としているのは、故・加藤弘之氏の教えである。狭い領域に閉じこもるのではなく、特定の対象から大きな問題意識を引き出す。固有名詞を超えて一般化できるメッセージを取り出すことを、駒形さんは重んじている。
書き終えてもなお、わからないこと
この番組で毎回尋ねる問いがある。本を書いて明らかにできたことではなく、明らかにならなかったこと、そして次に残された重要な課題は何か。駒形さんが挙げた最大の論点は、「中国の台頭は持続するのか」である。本書を書いた時点では、まだ十分確かめようのないことだった。
自転車産業では近年、機械加工や金属加工のみが競争力を決めた時代から、電子的技術が競争力を左右する要素になってきている。機械加工は装置を導入すればある程度追いつける領域になった。それに加えて、電子とソフトウェアが連動する領域では、他の産業ですでに見られるように、中国が追いつき、場合によっては追い越す余地が広がっている。変速の制御をAIが支援するような電動化・電子化の進展は、中国の供給力が世界に及ぼす影響を、いっそう強めるかもしれない。これは自転車産業だけの話ではなく、一国のあるいは世界の産業のあり方の方向性だと考えられる。この方向性を、自転車を例に見出しているのである。
鍵となるのは、新しいものを生み出す力が中国で続くかどうかである。数多くの担い手による競争が保たれるか。資金が供給され続けるか。消費市場に厚みがあるか。既存の技術の組み合わせから新製品が生まれ続けるか。新しい技術がすばやく製品に組み込まれ続けるか。この五つが今後も働き続けるのかどうか――これは中国の社会主義市場経済という独自の経済体制が既存の市場経済体制との間の体制間競争の行方を検討するためのポイントでもある。
脱中国は難しい――循環が価値を生む仕組みを安全保障に
日本の側はどうか。脱中国が構造的に難しいという事実を、まず踏まえなければならない。コロナ禍で中国の都市が封鎖されたとき、日本では春の商戦に商品が足りなくなった。こうした供給の途絶に備えて、経済安全保障を組み立て直すことが急がれる。在庫を持つだけではない。リサイクル・リユース、シェアといった「所有によらない利用」と「循環が価値を生む」仕組みを、制度と市場の両面から整え、供給ショックをやわらげる緩衝材にする必要がある。駒形さんが現在取り組んでいるのは、実態の把握が遅れているリユースの分野を中心とする実証調査であり、循環型のモデルを日本の経済安全保障として位置づける政策の設計である。自転車に乗って見えてくるのは、中国の産業が発展する仕組みだけではない。中国を見ながら、日本を見る。一冊の新書の先に、その問いは続いている。


